今年の初乗船、初仕事
今日は。kenji1946です。1/6日、沼津市西浦古宇に行って、愛艇Alcyoneに3日程泊まってきました。昨年末、漸くWind Speed Meterの部品が、ゆうこうマリンから届き、これを組み込むのが今回の目的。
- 在庫がない為、入手に手間取った。
- Wind Speed Meterのトラブル。
- マストトップに上る。
- 古い Mount Baseを外すのが大変。
- 今年も富士山がきれい。
1. 在庫がない為、入手に手間取った。
昨年の9月からWind speed MeterのMonitorに指示が出なくなってしまった。下からマストトップを見てみると風向は示しているのに、風速計は動かない。 これはおかしい、マストップに上り本体を外し、調べてみる。
風速計下部のBearing Assemblyが本体から外れかけている。このパーツを取り替える必要があると考え、 ゆうこうマリンに問い合わせてみた。
以前、 ゆうこうマリンはRaymarineの代理店ではなかったため、このパーツの取扱はしていなかった。所が今回は、直ぐに供給できるとの返事。調べてみると、現在ゆうこうマリンはRaymarineの代理店もやっている。
社長のコリンさん。ちゃくちゃくと商売を拡大している様子。
今回これを直すのであれば、ついでに台座(Mount Base)も取り替えたいと思いこちらも注文。ところが、こんな簡単な台座の在庫が無いとの事。本社(USA)にも在庫が無いとのことで、結局手に入れたのは、昨年の年末。
Marine業界は市場が狭まい。特に日本は。
2. Wind Speed Meterのトラブル
トラブルは2つ。Bearing Assemblyと Mount Base。
Bearing Assembly
このトラブルは、最初にWind Speed Meterを取り付けた時の自分の取り付け方法に起因している。
このBearing Assemblyは、ビスで上部の本体に取り付けられている。始めに取り付ける時、ビスを外して、内部の構造をチェック。その後、復旧したのですが、この接続が非常に微妙。しかも径1mm程のOリングが間に入る。あまりに細い作業のため、きちんとした位置で復旧されていなかったのです。
この為、Oリングが経年劣化し、風速計が動かなくなったのです。
Mount Base
一方、Mount Baseの方の問題は二つ。
Mount BaseはWind Meterを支持しているRodを支えている。
RodはネジでMount Baseに固定されるが、このネジ(左図の緑の部分、Setting Screw)が共廻りをしていた。Mountはプラスチック製でプラスチックに雌ネジが切られてる。
始めに取り付けた時、シッカリ固定しようときつく締めすぎ、ネジを壊してしまったのでしょう。
高所作業なので、これに限らずどの作業も、念を入れ過ぎる傾向があり、その結果でしょう。
もう一つのトラブルは、最初にMountを取り付けた時、Mountの固定ビス(上図でピンクで示される3つのビス)を片締めしてしまい、その結果、ビスの頭がビス穴の内壁に当り、Mountがマストトップにきちんと取り付いていない状態になっていた。
簡単に言えば、有る方向に1-2mmの隙間が生じ、その隙間をシムで埋めていました。
3. マストトップに上る。
大変さは想定していたので、固着したネジを取り外せる”ねじとりインパクト”を用意。これで簡単に外せると、”ねじとりインパクト”をハンマーでコンコン叩きまくる。3本のビスとも。
所が、どうにもネジが緩まない。マストから降りて、説明書を見直してみる。このドライバーは緩めと増し締め兼用で、レバーで切り替える。あっと思って、”ねじとりインパクト”を見てみる。案の定、レバーはR(締める方向)を示している。
何も考えずに叩いてしまった。慌てて、マストトップに戻る。今回は、レバー位置をLにして、ひたすら叩く。しっかり占めてあるので中々緩まない。1つのビスで、10分位叩く。やっと緩んでくる。これを3回繰り返す。
その後の作業は、非常にスムーズ。新しいMount Baseの取り付けは、3本のビスを均等に締めこむ。Mount Baseの内壁とも干渉せず締めこめる。マストトップにきっちり固定される。
Wind Speed Meterを取り付けた後、モニターで指示を確認。指示数値の動きもスムーズ。
5.今年も富士山がきれい
作業が終わった後、船をバースに戻し、後片付け。いささか疲れた。
ふと前方を見る。作業中、天気が良くない為、見えなかった富士山が見えてきた。
翌日は晴天。更に、富士山がよく見える。
手前は、古宇の桟橋。
富士山に向かって左が西。反対側が東になります。季節風は西から東に吹くため、西面は雪が吹き飛ばされ斑になっています。一方、東面は全面雪で覆われています。
長男家族とクワラランプール旅行
昨年の11月末、長男家族に誘われてクワラルンプールに3泊5日の旅行をしてきました。ホテルはシャングリラホテル。一昨年も同じ旅行をしたのですが、全員”楽しかったね”、”又、行きたいね”で、今年も全く同じプログラムでの旅行になりました。
参加者は、 長男家族、パパ、ママ、孫長男(小1)、孫次男(年長組)
私(ジイジ)、嫁(バアバ)の6名。
長男家族は小田原に、私達(ジイジ、バアバ)は横須賀住まいです。
下記の様にまとめてみました。
- 旅の楽しさと掛かった費用
- 食事
- Buta Cave
- 幸運に恵まれました。
- 孫長男のカードを買いに
- ラクチンな観光
- 私の出番
マレーシアから帰国、成田で孫次男が「まだ終わってないけど(まだ自宅に戻るまでの旅が残っているけど)、楽しかったね。」と今回も全員、旅行を満喫。長男は、「今回でKLは制覇したので、来年は郊外に行ってみようか」と来年も行く気マンマン。嫁もその気になっています、来年はどうなりますか。
1. 掛かった費用と旅の楽しさ:
旅行をして一番気になるのは何と言ってもお金。どれだけ掛かるの?
そしてその旅行、楽しかったの?
この二つがその旅に対する究極的な質問となるのではないでしょうか。「掛かった費用」と「旅の楽しさ」、先ずはここから見ていきましょう。
掛かった費用
昨年も痛感しましたが、お金は思ったほど掛からない。参考までに私達夫婦2名に掛かった、交通費・ホテル代は次の通りです。
- 航空運賃、JAL , TKY/KL, round: 69,380 x 2人 = 138,760円
- ホテル代、Horizon Executive, 870MYR/one night(1部屋分(2名)), 3泊連泊で1泊分無料の特典: 870MYRx2night +service charge 318.84MYR = 2058.84MYR = 55,711円 @ 1MYR=27.060円、MYR:マレーシアリンギット
- Taxi代、何故か、空港~ホテル:116MYR, ホテル~空港:150MYR、合計: 266MYR = 7,198円、 @ 1MYR=27.060
- リムジンバス代、横浜~成田、成田~横浜、@2,000円(高齢者料金)、合計: 2,000円x2名x2回 =8,000円
- 合計、209,669円、高級ホテルに3泊し、夫婦2人で約20万、安いよね。
上記以外に日本国内では、自宅から横浜までの交通費、マレーシア国内では、ホテルから観光地までの交通費(殆どがモノレールと地下鉄)が掛かっています。大した金額ではありませんが。
旅の楽しさ:
旅の楽しさって何なのだろう:前回のKL旅行も楽しかった。今回も楽しかった。26か国を訪問し。海外生活も長かった私も、旅の楽しさって何だろう?とつい考えてしまう。
今まで私は、荘厳な建築物、遺跡、或は目を見張る自然美がある場所、これが旅する場所であり、目的と考えていました。
KLはシンガポールと同様、今まさに発展の途上にあり、そのエネルギーとダイナミズムは日本、ヨーロッパでは感じる事の出来ないものです。これは間違いありません。確かに、Twin TowerもKL Towerも大きな建築物ではありますが、歴史的なものを感じさせるものではありません。又それだけのために、KLを訪れる程のものでもありません。
だけど何か、今回の旅行も心地良さを感じています。
旅をしている全員が共通して、食事にし、それを楽しんでいる。長男家族は夫々が何かの目的を持ってこの旅に参加し、他の人に迷惑の掛からない範囲で自分の目的を達成している。私達夫婦は、今までヨーロッパも旅しており、ブランド品も含めて特に買いたいものは無い。息子夫婦、孫と一緒に食事をし、一緒に歩きながら話をし、息子、孫が困った時、その手助けをしてやる。それだけで十分心地が良い。
今回のような特別な目的を持たない旅も本当に良いものだと思うようになってきた。
2.食事
旅に出た時の大きな楽しみの一つが食事。特に女性は日常の食事の準備と片付けから解放されるのでその楽しみは一層。シャングリラホテルはその豪華な朝食でも評判。私達のシャングリラホテル滞在での食事のとり方を見てみましょう。
朝食
シャングリラホテルに宿泊する最大の楽しみは、何といっても朝食です。朝6時半から10時半までやっていますが、その種類と豊富さには圧倒されます。
自分が知っているだけでも、洋食から、中華、現地のマレーシア料理、アラビック、レバニーズ、(多分、地中海料理、モロッコ料理等も含まれているのでは?)まで、ふんだんに用意されている。ベジタリアン料理もあります。
私は、1日目は、ブレッド、チーズ、ハム中心の洋食。2日目は点心、きしめん風の麺料理を中心に中華料理とマレーシア料理のミックス。3日目は、また元に戻って洋食。
毎日、今日は何を試してみようか、楽しみが拡がって来る。特に嫌いな物はなく、なんでも美味しいと感じる私は、その有難味を痛感する。
今回、ヨーグルトを食べ分けてみた。ここで、提供されるヨーグルトは4種類。Natural Yogurt, Low Fat Yogurt, Greek Yogurt, Quark。
食事がほぼ終わってから、1日2種類ずつ。1つの皿に2種類汲み取り、これにブルーベリー、ラズベリーと、ライチとプラムの実を添え、ゆっくり食す。至福の時間が流れていく。
この日はNatural YogurtとGreek Yogurt。どちらも滑らかな舌触り。Greek Yogurtは確か羊乳で作ると思ったが、意外に癖がない。
その前日にQuarkを試している。Quarkは初めて食した。ドイツから東欧、スカンジナビア諸国で日常的に食されているヨーグルトらしい。粒子が荒いせいかザラザラ感がある、一方、味は特別なものでもない。自分的には、それほど好みのタイプではなかった。
東工大卒50周年記念同期会に行って来た
卒50周年同期会
昭和43年学部卒業者を中心に、11月10日(土)、東工大卒50周年記念同期会が大岡山の蔵前会館にて行われました。ここに参加したので、自分から見た同期会をまとめてみました。
- 出席を決めたのは、ヨット部の山本に誘われたから。
- 1年”よ”組の仲間達、三賢、狩野直樹、遠藤、木暮、間、君達に会いたかった。
- 今回の同期会の参加者。
- 思わぬ人に会う事が出来た。
- よ組の仲間達、次回の同期会は、5年後に開かれます。是非とも会いたい。
1. 始めは出たくなかった。
この種の会合に出ていつも感じるのは、参加者の人種に偏りがある事です。
純粋に昔を懐かしみ、旧交を温めたいと参加する人も勿論いますが、会社での地位を鼻にする人間も比較的多い。会社の中で役員にでもなっていると、何か自分が抜きんでた存在になった気がしているのだろうか。中には役員、執行役員である事を相手を評価する物差しと捉えている人間も少なくない。
海外を主戦場にしてきた自分は、常に相手そのものの人格、能力を基準に、常に相手に敬意を払いながら相対してきた。客観的に公正に相手を評価するにはそれしか無い、と言うのが自分の価値観であった。国内だけで過ごしてきた人と自分との差を常々痛感させられていた。そんな理由で、この種の会合はあまり好きではない。
又話題は、どうしても日本社会を背景とした人間関係が取り上げられ易い。特に、学会、学校、研究所等を通じての人間関係が話題になり易い。こうした人間関係とは無縁の世界で生きてきているためか、この種の話には全く興味が持てない。
そんな理由で、始めは出たくなかった。
2. 出席を決めたのは、ヨット部の山本に誘われたから。
ヨット部の山本に記念同期会への参加を誘われた。山本は自分が出るのであれば、同期会に出たいとの事。山本はヨット部同期であり、同じ機械科、大学時代の最も仲の良い親友。今でも1年に一度はヨット部同期会で会っている。山本の誘いでは断われない。又、1年時の””よ組”の仲間とひょっとして会えるかもしれない。”との期待もあり、出席することに決めた。全く自主性がないけれども。
3. 1年”よ”組の仲間達、三賢、狩野直樹、遠藤、木暮、間、君達に会いたかった。
”よ”組の仲間達、君達に会いたかった。
昭和38年、当時の東工大の学部、学科と進級の仕組みは、全員が理工学部として入学、2年次に本人の志望と成績によって専攻学科に振り分けられ、4年次に、同じように学科内の研究室に振り分けられる仕組みになっていた。
東工大の1学年時のクラスの呼称は”いろはにほへと”が使われ、僕らのクラスは文化人類学の川喜田次郎先生の”よ”組だった。
”よ”組の仲間達とは入学当時、よく遊んだ。入学と、受験勉強から解き放された喜びでお互い満ち溢れ、女の子を誘ってのコンパ、春の学園祭でのフォアのボートレース、麻雀、パチンコとよく遊んだ。
自分は、現役の2月生まれで最も若く、又、一番初心だったため、彼らは良く面倒を見てくれた。特に三賢は、確か3浪しており、年も離れていたためか、良く面倒を見てくれた。そんな関係が7月頃まで続いたが、その後、自分は入部したヨット部の活動にのめり込んでいき、彼らとの付き合いも徐々に遠のいていった。
もし会う事が出来るなら54年ぶりだった。
4. 今回の同期会の参加者
長い時は流れた。
益一哉学長より、現在の東工大の活動の概要が説明され、同時に今回の同期会について説明がなされています。
- 卒業数:約720人
- 今回の同期会参加者:約220人
- 亡くなられた方:約70人
今回の同期会の参加者数は今までで一番多い。
平成28 厚生省、簡易生命表の概要によると、75才男性の生存率は75.1%。
今回の同期会の平均年齢は、多分、73歳程度。卒業者数720, 亡くなられた方70名とすると、生存者数は650名。生存率:90%、連絡不明の方もおられると思うが、それにしても生存率は結構良い方なのかもしれない。
5. 思わぬ人に出会う事が出来た
思わぬ人に会う事が出来た。児玉君、辰巳君、原田君の3名。
児玉君はヨット部の同僚。秋田の酒造、"太平山"の御曹司で、高校時代はレスリングでインターハイにも出場したナイスガイ。ヨット部は海での練習が中心なので合宿が多い。その合宿のたびに児玉君は味噌、醤油を実家から差し入れしてくれていた。
大きな体格の割には身体が柔らかく、動作も機敏な為、将来を嘱望されていて、2年の時には4年生キャプテン、宮脇さんのクルーとしてスナイプでインカレの関東大会にも出場していた。
所が3年になるころより、何故か、ヨット部には顔を出さなくなっていた。今回本人に、”何故、ヨット部を辞めたの?”、聞いたところ、建築科に在籍、4年の時に休学してECSでドイツに留学した為、ヨット部を辞めた。との事。
自分は、”児玉がヨット部から居なくなったのは、ヨット部が嫌いになだと思っていた”と言うと、”そんなことは決してない。休学して留学したのでやもう得なかった。”と強調していた。
辰巳君もヨット部に在籍していた。”自分がヨット部に在籍していたのは短かったため、ヨット部というのはおこがましいが”と言い、控えめに我々の輪の中に入って来てくれた。申し訳ない。あまり記憶を思い出す事が出来なくて。山本も記憶が無いよう。
いずれにしても、児玉君。辰巳君の両名には、来年のヨット部同期会に参加して下さるよう、お願いした。
機械科の原田君から声を掛けられた。アルジェリアのアルジェーで、私の世話になったと言って、えらく感謝された。
残念ながら自分には定かな記憶がない。彼の話では、当時、三菱重工業でボイラーを扱っていた彼は、客先ソナトラックの要請でアルジェリアに来て交渉を行っていた。右も左も分からないアルジェリアの中で、日揮にいた私が彼の面倒を1週間ほど見たとの事。
当時、日揮のアルジェリア事務所で日本食を提供したようで、そのことをえらく感謝された。そう言われてみてもまだ思い出せない。
当時、6-7年アルジェリア関係の仕事をしており、自分にとってアルジェリア内で知り合いの面倒を見るのはさほどの仕事ではなかった。言葉は悪いが、片手間でも出来る程度の事だった。
けれども、日揮以外の世界に住んでいる人にとって、キャンティーンで食事を取る事、アルジェーの市内を車で自由に行き来する事。これだけでも、えらく大変なことなのだろう。それをいとも簡単に面倒を見てくれたと、鮮明に彼の脳裏に焼き付いていたのだろう。
一方の自分は、特別な事をした意識がない為か、なにも記憶していない。環境の差はこれほどまでに大きく現れるのだろうか。最も自分の記憶力が無いだけの事かもしれないが。
当時、日揮は商社丸紅と連携を取っており、丸紅の筋からの依頼であったのかもしれない。次回、原田君に会ったらもう少し詳しく聞いてみよう。
6. ”よ”組の仲間達、次回の同期会は、5年後に開かれる。是非とも会いたい。
”よ”組の仲間達、三賢、狩野直樹、遠藤、木暮、間、君達に会いたかった。
今回の記念同期会に出席した"よ"組出身者は12-13名程度。その中に君たちはいなかった。今回の同期会、思ったよりも盛会だったとの運営者の自己評価より、5年後に55周年記念会を開くとの事です。
もしこのブログを見るようであれば、三賢、狩野直樹、遠藤、木暮、間、の”よ組”の仲間達、是非参加して下さい。君達に会いたい。
ブログを始めるにあたって
ようこそ”未知への学び”へ、皆さま初めまして、kenji1946です。来月73才になります。10年前に退職、第一線から退いて今日に至っています。そんな自分が、これからブログを始めるに至った動機、自分の目指している方向について、まとめてみました。実際にどうなるかは、分かりませんが、頑張ってみます。少し長文になります。
- 成功しているブロガーさんから受けた衝撃
- 残された時間をどう過ごすか
- ブログを書く事、自分に出来るのか?
- ブログ、SNSに対する先入観
- ブログ世界への挑戦
- 自分の目指す方向
- 取り敢えずの目標
1. 成功しているブロガーさんから受けた衝撃
成功しているブロガーさんのブログを見させて頂き強い衝撃を受けました。一言で言って、この人たちの姿勢が半端でない事を知りました。彼らの年齢は、20台、30台が殆ど。しかしながら、彼らは、人生を掛けてブログに取り組んいでいる、自身のエネルギーの全てを注ぎ込み、自分を曝け出して勝負をしている。その姿をそこに見たのです。
数あるブログの中で読者に自分のブログを見てもらうのは容易なことではない。中途半端な姿勢と内容ではとても読者を惹きつける事は出来ない。心血を注ぎ、その内容を充実させる事で初めて読者に見てもらう事が出来る。という事なのだろう。
彼らの作品に対する真剣な、真摯な態度に強く胸を打たれたのでした。
2. 残された時間をどう過ごすか
72才になる自分、残された時間をどう過ごすのかを考えてみました。自分の生き方の中心は何だったのか、振り返ってみました。
多少の浮き沈み、ブレはあるものの、自分に対し常に正直に生き、自分の良かれと思う方向に全力で取り組んできた自分の姿が見えてきます。
人に迎合したり、空気を読んでそれに合わせるのは自分のスタイルではないし、極端な場合、それは自分の価値観、信条に背く行為と受け止めて来ました。自分を構成する最も大切な部分なのでしょう。
会社人生では、それは必ずしも良い結果に繋がらなかったのかもしれません。又、周りの人に迷惑を掛けていたのかもしれません。
50才前後の時期、400-500億前後のある大きなプロジェクトの見積もりで、サウジアラビアの客先と交渉していました。
客先の理不尽な要求に対し論理的に交渉を進める私に、会社の経営者の一人から”正直の上に馬鹿が付く”と蔑まれました。「何を勝手な事を言っているんだ。そう思うのなら、自分で交渉して見ろ。」と心の中で呟き、自分のスタイルは何も変えずそのまま交渉を進めた自分を思い出します。
残された自分の人生さほど長くはありません。会社退職後、中古のクルーザーを購入し、長い間の夢であったヨットライフをエンジョイしてきてきましたが、体力的にも気力的にも、充実したヨットライフを過ごせるのはあと数年でしょう。その後はどうする?
その有力な候補は、ブログかもしれない。
今後、体力、気力が衰えても、今までと同じように、自分に対し正直に生き、自分の良かれと思う方向に全力で取り組む自分でありたい。
3. ブログを書く事、自分に出来るのか
自分は文章を書くのは元々得意ではありません。そんな自分にブログが出来るのか?考えてみた。
有名ブロガーさんのブログを見ていて、共通して見えてくる姿は、文章そのものよりも、題材の内容を自分なりに分析し、自分なりの切片に分解し、題材を構成するいくつかのコンポーネントごとに、分析結果と切片を論理的にくみ上げ、目的に沿う様に作り上げている。
有名ブロガーさんのブログは無論文章もきれいで、良く整っているが、むしろこちらの方に大きなウエイトが置かれている。この理解が正しいかどうかは分からないが、少なくとも自分にはそのように見える。
題材の内容を分解し、論理的に組み上げていくのであれば、自分でも出来るかもしれない。
4. ブログ、SNSに対する先入観
ヨットをやり始めて少し経過した7-8年前ごろ、Mixiの会員になり自分のページを作り、公開していました。私のページにアクセスする何人かの人達と友達になりました。
私はヨットを中心に交流したかったのですが、ヨット中心での交流を希望する人は少なく、殆どの人達は、グルメの話、ヨットと関係ない観光地の話等に話題は拡散、”どこそこのパスタは美味しい。”等、と”イイネ”のオンパレード。この軽薄さに嫌気がさし、SNSから遠ざかる事になりました。
成功しているブロガーさんのブログに啓発され、ブログとSNSとの連携の重要性を思い知らせられ、Twitter, Facebookを今一度見直してみると、違った世界が見えてくるのでした。
相変わらず軽薄な”あそこのスィートがおいしい”、”イイネ”の論調、”友達になってLineをしよう、サービスするから”の類も氾濫していますが、一方、真剣にブログについての議論を戦わせているブロガーさんもたくさんいるのが見えてくるのでした。
彼らは、このプラットフォームの上で生活を賭して戦っている。だから真剣に見える。
ブログをやるのであれば、このSNSの世界にも入り、彼らと同じ空気を吸いながら、彼らから多くの事を学び、それをブログ作成に生かしていく必要があると痛感するのでした。
一方、必要ない人達とはコミュニケーションしなければそれで済むこと。と割り切る事が必要なのかもしれない。
5. ブログ世界への挑戦
私はSNSもブログも全くやった事のない素人。SEO、EAT、リツイ、ノマドエンジニア、アプデ、サイコパス、スクション、これ等の言葉、全部分からない。ググルさえ分からなかった。そんな人間にブログ作成は出来るのだろうか、自問自答が今でも続いている。
これらの用語は、言わばスラング。SNS, ブログの世界固有の業界用語。
スラング、業界用語は知らなくてもいい。でも知っていると理解は格段に速くなる。自分は退職するまでプラントエンジニアリングの世界にいましたが、この業界の用語は殆ど英語で成り立っています。和文メールを使用する時も、多くの英語が使用されます。英語そのものを和文メールに入れる事も珍しくありません。その方がニュアンスも含め的確に意図を伝達する事が出来るのです。
ブログの世界も同様に、この世界特有の用語にあふれています。これ等はいわばスラング、業界用語。スラングの使用は必須条件ではありません。でも知っているといないとではその理解と深度は格段に異なってくるでしょう。
ブログ、SNS特有の用語を身に付け、更に、ブログの表現Tool言語であるHTMLを身に付け、SNSにも参加し、ブログの題材を収集し、並行して多少稚拙でもブログを書いて行く。これ等の作業を通じてブログ脳を自分の中に育てて行きたい。少なくともこのレベルまで到達したい。
6. 自分の目指す方向
自分は生来、知らない事に対しては謙虚であり、そして探求心の強い人間です。70才を越え、これから体力、気力ともに、下降線を辿っていきます。
そんな中でも、自分の知らない事に対し、常に謙虚であり、知らない事を深く探求する自分でありたい。その思いを込めてブログ名を”未知への学び”としました。
ブログの内容は、気象、自然現象、技術、社会現象、生活環境、ヨット、園芸を中心にします。
このブログが、聊かでも皆さんとの集いの場となり、又憩いの場となれるよう努力して行くつもりでいます。お付き合いいただけると嬉しいです。
7. 取り敢えずの目標
今回ブログを始めると心を決めてから、この初稿を投稿するまでに既に3カ月半が経過しています。
先ず、ブログを書く要領が分からない。ブログの構成、その要素、設定の仕方が分からない。分からない分からないのオンパレードです。
ここまで来るのに時間が掛かってしまった理由は2つあります。一つ目は、ブログ、SNSに対する知識が全くない為、自分自身とPC, IPADの作業環境の整備に時間が掛かってしまった事です。
二つ目は集中力の欠如でした。今は1日、5-6時間程度、ブログ関連の作業に集中する事が出来るようになってきましたが、当初は、1日精々2-3時間しか集中出来ませんでした。
過去の経験則からしても、作業環境と自身の知識が充実している作業には、長時間集中して作業を継続する事が出来ますが、そうでない場合、集中出来るのは精々1-2時間程度です。今までがその状態でした。
現在の自分の立ち位置は、ブログの世界が漸くおぼろげに見えてきた状態です。まだまだ全くの駆け出し状態、更なる整備が必要です。
今後の目安は、10稿発行した段階でブログを公開、30稿発行段階でブログホームページ、グローバルナビ、サイドカラムを含めたブログデザインの再設定を行う予定です。夫々の目標を1月末、2月末に置いています。先ずは始めてみます。
長文ここまでお付き合いくださり有難うございます。今後ともお付き合いくださると嬉しいです。