未知への学び

気象、自然現象、技術、社会現象、生活環境、ヨット、園芸を中心に、自分の知らなかった事、気の付いた事を記事にします。

東工大卒50周年記念同期会に行って来た

懐かしの校舎卒50周年同期会

昭和43年学部卒業者を中心に、11月10日(土)、東工大卒50周年記念同期会が大岡山の蔵前会館にて行われました。ここに参加したので、自分から見た同期会をまとめてみました。

  • 出席を決めたのは、ヨット部の山本に誘われたから。
  • 1年”よ”組の仲間達、三賢、狩野直樹、遠藤、木暮、間、君達に会いたかった。
  • 今回の同期会の参加者。
  • 思わぬ人に会う事が出来た。
  • よ組の仲間達、次回の同期会は、5年後に開かれます。是非とも会いたい。

1. 始めは出たくなかった。

この種の会合に出ていつも感じるのは、参加者の人種に偏りがある事です。

純粋に昔を懐かしみ、旧交を温めたいと参加する人も勿論いますが、会社での地位を鼻にする人間も比較的多い。会社の中で役員にでもなっていると、何か自分が抜きんでた存在になった気がしているのだろうか。中には役員、執行役員である事を相手を評価する物差しと捉えている人間も少なくない。

海外を主戦場にしてきた自分は、常に相手そのものの人格、能力を基準に、常に相手に敬意を払いながら相対してきた。客観的に公正に相手を評価するにはそれしか無い、と言うのが自分の価値観であった。国内だけで過ごしてきた人と自分との差を常々痛感させられていた。そんな理由で、この種の会合はあまり好きではない。

又話題は、どうしても日本社会を背景とした人間関係が取り上げられ易い。特に、学会、学校、研究所等を通じての人間関係が話題になり易い。こうした人間関係とは無縁の世界で生きてきているためか、この種の話には全く興味が持てない。

そんな理由で、始めは出たくなかった。

2. 出席を決めたのは、ヨット部の山本に誘われたから。

ヨット部の山本に記念同期会への参加を誘われた。山本は自分が出るのであれば、同期会に出たいとの事。山本はヨット部同期であり、同じ機械科、大学時代の最も仲の良い親友。今でも1年に一度はヨット部同期会で会っている。山本の誘いでは断われない。又、1年時の””よ組”の仲間とひょっとして会えるかもしれない。”との期待もあり、出席することに決めた。全く自主性がないけれども。

3. 1年”よ”組の仲間達、三賢、狩野直樹、遠藤、木暮、間、君達に会いたかった。

君たちに会いたかった。”よ”組の仲間達、君達に会いたかった。

昭和38年、当時の東工大の学部、学科と進級の仕組みは、全員が理工学部として入学、2年次に本人の志望と成績によって専攻学科に振り分けられ、4年次に、同じように学科内の研究室に振り分けられる仕組みになっていた。

東工大の1学年時のクラスの呼称は”いろはにほへと”が使われ、僕らのクラスは文化人類学川喜田次郎先生の”よ”組だった。

”よ”組の仲間達とは入学当時、よく遊んだ。入学と、受験勉強から解き放された喜びでお互い満ち溢れ、女の子を誘ってのコンパ、春の学園祭でのフォアのボートレース、麻雀、パチンコとよく遊んだ。

自分は、現役の2月生まれで最も若く、又、一番初心だったため、彼らは良く面倒を見てくれた。特に三賢は、確か3浪しており、年も離れていたためか、良く面倒を見てくれた。そんな関係が7月頃まで続いたが、その後、自分は入部したヨット部の活動にのめり込んでいき、彼らとの付き合いも徐々に遠のいていった。

もし会う事が出来るなら54年ぶりだった。

4. 今回の同期会の参加者

今回の同期会参加者長い時は流れた。

益一哉学長より、現在の東工大の活動の概要が説明され、同時に今回の同期会について説明がなされています。

  • 卒業数:約720人
  • 今回の同期会参加者:約220人
  • 亡くなられた方:約70人

今回の同期会の参加者数は今までで一番多い。

平成28 厚生省、簡易生命表の概要によると、75才男性の生存率は75.1%。

今回の同期会の平均年齢は、多分、73歳程度。卒業者数720, 亡くなられた方70名とすると、生存者数は650名。生存率:90%、連絡不明の方もおられると思うが、それにしても生存率は結構良い方なのかもしれない。

5. 思わぬ人に出会う事が出来た

思わぬ人に会う事が出来た。児玉君、辰巳君、原田君の3名。

児玉君はヨット部の同僚。秋田の酒造、"太平山"の御曹司で、高校時代はレスリングでインターハイにも出場したナイスガイ。ヨット部は海での練習が中心なので合宿が多い。その合宿のたびに児玉君は味噌、醤油を実家から差し入れしてくれていた。

大きな体格の割には身体が柔らかく、動作も機敏な為、将来を嘱望されていて、2年の時には4年生キャプテン、宮脇さんのクルーとしてスナイプでインカレの関東大会にも出場していた。

所が3年になるころより、何故か、ヨット部には顔を出さなくなっていた。今回本人に、”何故、ヨット部を辞めたの?”、聞いたところ、建築科に在籍、4年の時に休学してECSでドイツに留学した為、ヨット部を辞めた。との事。

自分は、”児玉がヨット部から居なくなったのは、ヨット部が嫌いになだと思っていた”と言うと、”そんなことは決してない。休学して留学したのでやもう得なかった。”と強調していた。

辰巳君もヨット部に在籍していた。”自分がヨット部に在籍していたのは短かったため、ヨット部というのはおこがましいが”と言い、控えめに我々の輪の中に入って来てくれた。申し訳ない。あまり記憶を思い出す事が出来なくて。山本も記憶が無いよう。

いずれにしても、児玉君。辰巳君の両名には、来年のヨット部同期会に参加して下さるよう、お願いした。

機械科の原田君から声を掛けられた。アルジェリアのアルジェーで、私の世話になったと言って、えらく感謝された。

残念ながら自分には定かな記憶がない。彼の話では、当時、三菱重工業でボイラーを扱っていた彼は、客先ソナトラックの要請でアルジェリアに来て交渉を行っていた。右も左も分からないアルジェリアの中で、日揮にいた私が彼の面倒を1週間ほど見たとの事。

当時、日揮アルジェリア事務所で日本食を提供したようで、そのことをえらく感謝された。そう言われてみてもまだ思い出せない。

当時、6-7年アルジェリア関係の仕事をしており、自分にとってアルジェリア内で知り合いの面倒を見るのはさほどの仕事ではなかった。言葉は悪いが、片手間でも出来る程度の事だった。

けれども、日揮以外の世界に住んでいる人にとって、キャンティーンで食事を取る事、アルジェーの市内を車で自由に行き来する事。これだけでも、えらく大変なことなのだろう。それをいとも簡単に面倒を見てくれたと、鮮明に彼の脳裏に焼き付いていたのだろう。

一方の自分は、特別な事をした意識がない為か、なにも記憶していない。環境の差はこれほどまでに大きく現れるのだろうか。最も自分の記憶力が無いだけの事かもしれないが。

当時、日揮は商社丸紅と連携を取っており、丸紅の筋からの依頼であったのかもしれない。次回、原田君に会ったらもう少し詳しく聞いてみよう。

6. ”よ”組の仲間達、次回の同期会は、5年後に開かれる。是非とも会いたい。

”よ”組の仲間達、三賢、狩野直樹、遠藤、木暮、間、君達に会いたかった。

今回の記念同期会に出席した"よ"組出身者は12-13名程度。その中に君たちはいなかった。今回の同期会、思ったよりも盛会だったとの運営者の自己評価より、5年後に55周年記念会を開くとの事です。

もしこのブログを見るようであれば、三賢、狩野直樹、遠藤、木暮、間、の”よ組”の仲間達、是非参加して下さい。君達に会いたい。